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番外編

番外編その2

2010年   NEW

反響を呼んでいます!!

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大人のための新しいネットワーク「club willbe」








                          


仏相な世の中、日本の中

―フランス在住ただいま帰国中―
                                                                                            小畑 リアンヌ



-ナニーが行く-

いくら狭い小さいアパートを買うのも中身を見ずに買わない。大根一本を買うのとはわけが違う。石橋を叩いて渡る人間である。鉄橋でも叩いて渡るぐらいでもある。

日本ではそのアパートが賃貸中だと見せてくれないと言う。こっちは賃貸であろうと空であろうと見たい。何度も交渉したが断られることも多々あった。

 「人が住んでいますからね」これが言い訳である。-当たり前だろうか。住めないようなアパートなら買わない。

 「土足で入るわけにはいきません」-そんなことぐらい知っている。いくらフランス帰りだからって。

 フランスでは賃貸であろうと売り物件は借家人と連絡を取り合って見せてもらえる。いつ何時大家が売りに出すとも限らないので賃貸契約時にその分の内容も付け加えられているのが普通だし、それがなくとも常識上見せてくれる。

 こうなれば、こちらから尋ねて行って、運良く入れてくれたら見学してやろう。ブザーを鳴らしても出てこない。じゃあ、隣のブザーを押すと少しお年のいった女性が「そーっ」と玄関を開けた。

 もちろん私は押し売りではない。その逆の押し買いである。インターン越しに事情は話したが、その女性はいかにも疑い深く、ドアを少し開け、まあ、当たり前か。フランスじゃ先に予約しなければ誰も出てこない。

 鍵穴から覗かれてお仕舞いかもしれない。でも十分ぐらい玄関越しに話した後、どうぞと親切にも中に入れてくれた。しかしそこは買おうとしているアパートより2倍ぐらいの大きさだから意味がなかった。

 次に二つ下の階の住人に聞いてみた。背が高いその人は事情を話すと気軽に、

 「汚くしていますよ」と入れてくれた。

 よく遠慮して人はこの言葉を使うが、いや汚くは無いが本当に散らかっていた。しかしそこのワンルームは改装がされていて、和室が取り外され、フローリングに変わっていた。畳の部屋という素晴らしいものがあるのにどうして改装してしまうのかな。もったいない、もう折角の和のセンスがどこかへ消えてしまっている。

 じゃ、もう一件行くか。調度上の階はこれまた若い男性、でも30歳は過ぎているのかな。玄関の取っ手をしっかり握ったまま、-あなたに比べると私はか弱い中年女なんだけど。いつでも閉めてやると言う感じでこちらも。

 「散らかっていますよ」とおっしゃられた。

「いえ、大丈夫です」とは言ったものの、これは失礼な言い方ではあるが本当にこちらは汚かった。台所は汚れ放題、油が黒くなり、においがこびりついている。

足の踏み場もないとはよく言ったものでこの場合は当てはまる。子供がいるのか、パズル製のプラスチックの風呂場に置くマットが台所に広告の紙とともに散らばって置いてあった。

 まあ、どちらにしても見せてくれる分にはこちらは文句は言えない。むしろ感謝感激。自分ののアパートではないのだから、一瞬フランスのあるテレビ番組のことを思い出した。

それはひと呼んで“スーパー、ナニー”つまり「スーパーお手伝いさん」である。二人の中年女性がお掃除が出来ない人の家に行き、そこで掃除をして、次に来るときまでに自分でも出来るように教え込むと言う番組で、ちょっと“やらせ的な”感もしないではないが、そういう家は本当に汚い。

カビや結露はもとより、ねずみ、蟻、アブラムシ、ちょっと古いか、いやゴキブリが出てきてもおかしくない汚さである。日本だって、少なくとも今まで見学したアパートはすべて候補に上げれるのではないか。

 こう見えても、おっとまだお目にかかっておりませんが、まんが的に今回描写してもらったので挿絵をご覧あれ。まあそれはともかくお掃除好きである。イギリスまで掃除婦として働きに行こうとしたぐらいであるので。しかし今まで職業としてはやらなかった。

 片付け魔である。捨て魔である。清潔の基本は必要ないものを置かないことだと心得ている。別に立派な調度品にはこだわらない。日本で一時流行った風水の原理は私なりに清潔と簡素にすることだと解釈している。

 北側の台所では太陽が入らない、太陽が当たらないと、ばい菌が繁殖しやすい、だから清潔にするためには北を避ける。そこからきていると思っている。でも、フランス人は日本人以上に片付けられない国民であろうか。

 

そうとは言えない。むしろ逆で、かなりの綺麗好きである。まあ、たいしたお料理は作らないので台所は光っている。しかも上には上がいるもので、隣の奥さんちは何度かお茶に誘ってくれたときに入ったことがある。

話の途中で、彼女は何か出そうと棚を開けた。なんとそこにはワイシャツが2ミリとずれずに並べてあったのには驚いたことがある。彼女はこう言った。

 「アイロン掛けの時、アイロン台の幅を利用して、上から3cm、下から3cmにすればいいだけよ」

とそんなものかな。でも確かにすごい。

何度か他の近所へも立ち寄ったことがあるが、必ず帰ってくると、愕然とし我が家も必死で片付けてしまうほど、その見事さに負けてしまう。くやしい。しかし、フランス人は別の面もある。今度は“フランスを斬る”という題で意見したいものもたくさんある。

日本の場合、和洋折衷であるから物が多い。捨ててもいいものまで置いてある。もう少し何とかならないだろうか。まあ、そのおかげでこちらはいつも日本のリサイクルセンターでいいもの、ほしいものが手に入るのだが。しかも新品さえも手に入る。ウレシイ。

部屋を見せてくれた住人は、こんなことも言った。

「管理組合をやったこともありますけど、自転車置き場はいつもみんな取り決めを守らず、ごちゃごちゃして汚いですよ。見てくればわかりますよ」

「本当に困ったものだ」

彼はこう付け加えて、手を組んで、首をかしげ片方の方の手を頬に添えた。

そしてもう一度

 「いやあ、本当に困っているんですよ」とドアを閉めながら言った。

その言葉を確かめる如く早速、駐輪場へ行ってみたがそれほどのこともなかったので、こちらの方がたじろいた。そんなものなのかな、彼は何度もみんなは汚い、いやになる、ちっとも守らないと自分のアパートを見せてくれている間45

はこぼしていた。

でも、共用の場は感心があるようだが、他山の石ではないが自分の家は感心がないのだろうか。あの汚さを我慢できる人がみんなと一緒のものには我慢が出来ないのはどう判断していいのだろうか。理解に苦しむ。なんでや。

 

                  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

-情けないリアンヌ-

 何故、今リアンヌはこんなことを書くのか。これは日本人に対してバッシングではないか。

 これを書いている間、色々な人から意見をいただいた。

「私にはよくわからない」その通りです。書いている本人もわからないのですから。

 「政治家になれば」と言う方も、でも

 「小畑」「小畑でございます」「小畑」「小畑に一票を」「小畑」「小畑」

「小畑でございます」

 と言うテープレコーダーにだけはなりたくありません。ましてや私のようなものがしゃしゃり出るなんてとんでもございません。誰かがこうも言いました。

「政治家はなるものじゃない、お金で使うものだ」なるほど。

 人によっては

 「時には辛口そしていつも本音の文章は気持ちがい いです」

 「悪くなった日本の責任を、国民がとらねばならないと思うけど、献身的に働いて日本に納税し続けたから」

 「この国で、いただける年金をいただいて、安住するつもりよ」

「老後は楽しく過ごしたい」

「この国の成長を支えてきたのだから」

「こんな愚痴を言うより、楽しいことを考えたい」

と言う方もいました。そうかもしれないけれど、何かさびしい。戦争を知らない大人がいつの間にかこれからの若者を考えないで自分たちの趣味だけを追求するってどうだろう。

「エッセイを読んだ。面白かった。」

「きっと共感してくれる人たちがいるはずです」

「自分さえ良ければ・・・と言う作者の言葉は同感です。」

 また、スペインでも読んでくれている方々がいて。

 「どこに骨をうずめたいか」と質問したところ、「スペインは嫌だ」と答えた人がけっこういたのには驚きましたと。でも、

 

  「私も含めて、ずっと日本で麻痺した生活を送ってる人にはない観点ですね」

 「作者が書いているようにまず「自分で稼ぐ」ことを忘れかけ ている人々も
増えてきてる事は間違いないですね」

 「まず字がもっと大きい方がよいと思います」と教えてくださった達人の方のご意見はごもっともです。

日本では年老いた方が本当に健康で、楽しんでいる。

わずかな年金で暮らしてどこが悪い。楽しければ、健康になれるし、人生も謳歌できる。誰にも迷惑かけていないのだから。でも裏を返せばその楽しみ方が違う。いずれ訪れる老いに立ち向かってはいない。

テレビでも、殆ど毎日のように病苦と闘う画面の裏で、楽しい日本人中年を特集している。楽しければ健康でいられる。長生きが出来る。でも、その為にだけ生きているなんてさびしい。老いては子に従えというではないか。

フランスのカンヌ映画祭でグランプリを取った“楢山”という映画は印象に残っている方も多いのではないか。最近、こちらで再放送された。

老いた自分の母親を山に捨てるなんて過酷だし、ひどいと思う。でも、あの映画は何を私たちに告げたかったのか。自から子供の世話にならずに生きようとすることが大事ではないだろうか。それは自分の子だけの問題ではない。これから先、過酷に働かなければならないのは若い人たちだと私は思う。

戦争を知らない大人の自分は今、自分でも考えられない中年になった。気持ちはいつまでもあのときの青春のままだ。でも身近に死をみたとき、死とは何かも考えさせられた。

私はホスピタルにも寝泊りしました。そこは現実として受け止めるには本当に過酷な世界だった。いずれは誰にでも来る。

だからと言って、今吸っている空気が自分ひとりのものだと勘違いしないでほしい。

一人で暮らしているようで結局は最後には誰かに頼らなければならない。それがどういうことか。考える能力も今の日本の大人に持ってほしい。

不思議なのが、同感してくれる人が一度は外国で暮らしたことがある方に多いということ。

ちょっと、わかるけどうーんって感じている方は

「そこまでいくかよ。」

「当然です。」人間にはいつも色々な考えがあるのだから、十人十色なのである。

フランスは実を言うと色々な考えを認める国なので、個人的にしか考えない人に何を言っても無駄、だから個人主義とよく言われる。だけど別の考えを持つ人も認めるというのもフランスでもある。

では日本はどうか。今まで色々な考えを認めた上で言っているだろうか。

おっと、小畑は選挙権がないと思われている身です。政治に口出しするなんて。お前の出る幕じゃない。ごもっとも。

フランスで食事に招待されると政治の話はよく出る。みんな興味があって、しっかり自分の意見を持っている。フランス人は日本人にもよく政治のことを聞いたりする。今の日本の首相は誰と聞かれて答えられなかった日本人学生もいたとか。

次の章で話すが、自分の個人的な終の棲家を探すなんていうごく小さな事情で今回帰ってきて、日本を肌で感じてしまった。

日本人はいつの間にか慣れきってしまっている。この生暖かい空気の中で、バランスを失ってしまっている。和洋折衷でいいではないか。昔のように色々なことを吸収して、日本人風の何かを作り出していけばいいのではないか。

とは言いながら。そうえらそうに言いながら。

本当は何も出来ない自分が一番大人になってはなりきっていないのかも知れない。と、このごろは反省。それこそ自分に向けて印籠をかざしたいぐらい。

 もし、五千五百万人の50歳以上の大人がいるのなら、誰でもいい、周りで苦しんでいる一人を助けることが出来るなら、、、そうワークシェアがあるのなら人の輪、人の和のほうがいい「ライフシェア」もあってもいいものではないか。それは印籠をかざすよりも大切なことなのだろう。

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-女の乞食-

 ここで本題に入らなければいけない。今回、こうして書いたこともないエッセイを書きたいと思ったのは、あることがきっかけだった。

こちらのテレビの真夜中の放送で、「視点論点」と言うのがある。眠れないとき見ることにしている。そこでその日のテーマは“動こう、日本の大人たち”だった。

日本での出来事を考えてみた。日記のようにメモっていたものを出してきて、そしてそれじゃ、書いてやろう。書き終わったら、そのときは、、死んでもいいとさえ思った。オーバーかな。よおし、それから一週間ぐらいで構想が練りあがった。ペンネームは今回日本にいたときから決まっていた。

ただ言いたかった。書きたかった。何も出来なかった自分が恥ずかしかった。

そうあのとき、声を掛けるべきだった。だから一番先に愚痴を言いたいのは自分かも知れない。その日は雨だった。久しぶりの雨だった。

天王寺にバスと地下鉄に乗り換えてたどり着いた。目的地は四天王寺のお寺の境内。以前来たとき骨董品の朝市が行われていた。でも今回は雨で、しかも道行く人に聞いたら、月に一回で、もうその日は過ぎてしまっていた。

 じゃあ、折角来たのだから、シャガールの展覧会を見てやろうと思って、逆の帰り道、天王寺公園まで戻り、と言うか。

 私はすごい方向音痴で西も東もわからない人間である。これはどんな国に行こうと治らない。以前、「味オンチ」とも書いたがそれだけではない。すべての「オンチ」を兼ね添えている。歌を唄ってもキーが外れる。名前が思い出さない「名前音痴」。場所がわからない「場所音痴」。

 だから、元の場所に戻らない限り、次の場所へ移行するのは無理なのである。

元の振り出しに戻ると、雨が止み。

 公園の前には浮浪者がたむろしていた。これから秋になり冬になるのにこの人たちはどうなるのだろうと思った。そこに中年の女の浮浪者も混じって、公園の前にあるベンチに寝ていた。公園は、昔は誰にでも開かれていたはずなのだが、いつから、公園に入ることすらお金を払わなければいけない。この場合美術館へ行くので公園の素通りは出来るらしい。

 満員の押し合いのシャガール展を見て、こんなことならオペラ座の天井のシャガールの絵で我慢すればよかったかな。と思った。

疲れて梅田へ戻る、そういえば昔、お世話になった画廊があったなと寄ってみることにした。

 確か第三ビルのあたりに、、、ビルのエスカレータで上がるとそこは閑散としていた。それぞれの店はシャッターが閉まっている。

 これは嘘ではないのか。それとも夢とも思ったが、夢ではなかった。殆ど閉まっていた。あれだけにぎやかだった場所がこれほど変ってしまったとは。ひとつだけ開いていた客が誰もいない時計店に画廊のことを聞くと、

 「そりゃ、ずっと以前に本屋に代わり、その後閉められたな」

「へえ、閉まったんですか」

「美術なんてもうからへんからな」

ぼーと、何軒も並んだビルの谷間にいると、私と同じようにぼーとした女の子が前に立っていた。追い越しながら何気なく眺めて、ふと、

 彼女はハンドバッグも何も持たず、黄色いミモレ丈のパンツに薄いセーター。

その彼女が裸足だったのに気付くのに時間が掛かってしまって、ハッと振り返った時にはビルの谷間に消えていた。

 ショックだった。

 なぜ、声を掛けなかったのか。恥ずかしい。走ってさがしたがもう見当たらなかった。娘のような年齢、髪はショートでくしゃくしゃに乱れていた。

 声を掛けるべきだった。これがフランスだったらとっくに掛けていただろう。日本であることが壁になって結局話すことも出来なかった。

その後、阪急電車からJRに向かう道の陸橋の上でも、芋虫のように毛布に包まったホームレス、いや乞食だ。人に恵みを受けていないからホームレスなのか、もうっーどちらでもいい。片隅にごみの様に捨てられ、こんな昼間から眠っているようだ。

警察は何をしているのだ。市は何故、泊るところを提供しない。アソシエーションはないのか。

 

フランスには「ドンキホーテの子供たち」と言うグループがいて、浮浪者にテントや寝泊りの世話、政府に救援のために要請する要するにNPOである。彼らはこんなこと絶対に見逃さない。

 

小さいとき、みんなが綺麗なお正月の着物を着てお参りしているときに住吉公園の太鼓橋の横に白い着物を着て、兵隊の帽子をかぶった、両足のない人を見かけたことを思い出した。人は両足なくとも、乞食をしてでも生きている。そう幼心に思った。 まさか今のこの裕福な時代に女の乞食を自分の国で見るなんて考えもしていなかった。ショックだ。

 そして、声も出せなかった自分が一番情けない。世は回り持ち、いつか自分もそうなるかもしれない。

 今頃彼女はどうしているだろう。

何もしない政府がまるで朝三暮四のように定額給付金だけをちらつかせているように見えて仕方がない。




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